西日本の山陽の田舎町の実家から、88歳の父と、81歳の母を首都圏の私の家へ呼び寄せた、その奮闘記。

思うこといろいろ編

これは施設に母親を入れるまで、そして施設に入れてからの母との葛藤をお話しする。

母親は、3年くらい前から、ひどく日々の生活の文句を言うようになった。コロナで、外出が減ったころからだった。つまらない、おとうさんの世話をして暮らしていくのが嫌だ、などと電話すると1時間くらい言い続けた。そして「もう老人ホームへ入れてくれ、ごはん作って掃除して、爺さん連れて病院へ行き、重い、大きな袋を下げて買い物へ行くのに疲れ果てた」と常に言った。

そのたびに私は、「まあそれが生活というものだから、頑張るしかない、たまにカラオケ行ったりで気を紛らわせるしかない。婆ちゃんだけでなく、世の中、みんなそうやって頑張っているんだよ。」などと言ってなだめていたのだ。そういうと母親も「そうだね。頑張ろう」と言ってくれていたのだった。

ところが、父親に対しては、ストレスの種だったようで、父親に「家を売って、老人ホームに入ろう」「あんたの世話して、老老介護だ。もうこの汚い家で、生活していくのにほとほと嫌になった」と、それこそ朝から2時間近く毎日言い続けたそうだ

たしかに父親は、昔の人間で「男子厨房に入らず」という時代の人であり、九州男児でもあり、家のことは全くしない人だった。母親は、どちらかというと、世話をするのが当たり前といった、これまた昔の、女が身の回りの世話をするもんだという昔の常識を持った典型的な人だったのだ。

この組み合わせで、夫婦を続け、結果80歳を過ぎて、母親が家事を嫌がって、文句を言い続けることになったのだ。

そして弟は、実家の近くに住んでいて、実家の様子を見に行ってくれていたのだが、父親が、母親の愚痴のはけ口になり、母親の愚痴の攻撃に会い、精神的に弱ってきているのを感じていた。父親を少しでも母親から遠ざけようと、父親を週3回、デイサービスに通わせたりしていたのである。

私は母親に、そんなに家事が嫌なのだったら、介護サービスを利用して、掃除、洗濯、食事を作ってもらったりのサービスを利用するように勧めると、元気な私がいるのに、家事いっさいを他人にさせるのは恥ずかしい、家が汚いので人を入れるのは恥ずかしい、など、変なプライドが邪魔をして、サービスを受けることをかたくなに拒否するのだった。

ワタミの宅食も試しにとってあげても、すぐ辞めるし、コープもとってあげてもすぐ辞める。

文句だけ言って、次に進もうとしないのだった。そしてストレスのはけ口に父親だけを攻撃する、といった日々を3年近く過ごした。

私にはいっさい母親は言ってこなかったのだが、弟によると、家の鍵をなくした、車のカギが見当たらない。銀行のキャッシュカードをなくした、キャッシュカードでお金が下りない、などといっつもそのたびに弟に電話をかけてきたいたようだ。

弟はそのたびに実家に行ってあたふたしていたらしい。結局母親に振り回されていたのだった。

弟は自営業のため、けっこう時間に自由がきいたので、そのような結果になったが、普通のサラリーマンだったら、イチイチいけない。それがよかったのか、悪かったのか、結果、振り回されることになったのだ。

また、母親は、ちょっと嫌なことがあると、叩いたり、大声で叫んだり、弟にも「二度と顔を見たくないから、もう二度と来るな」と言って追い返したりと、弟が実家に行くと喧嘩になることが多かったらしい。母親の認知はすぐ怒って、攻撃的になるところがあるようだった。1年くらい前から、その薬を処方してもらいそれはきちんと飲んでいた。

母親と電話で話していた私も、最近、母親が鬱っぽいと思っていた。そんなある日、とうとう私は、「もう爺ちゃんは、私が見るから、婆ちゃんを老人ホームへ希望どおり入れてあげよう」と言った。

この決断が、これから大変な日々を過ごさなければならない運命の扉であったのだ。

私は、首都圏に住んでいて、実家は西日本の山陽の小さい町にある。

弟が実家近くには住んでいるが、あまり交流はない。

そして、先にも書いたが、私はある日、母親を、首都圏である、私の家の近くの老人ホームへ入れて、父親は私が家で見る。という決断を下した。父親も施設の入ればいいのだが、父親も施設に入れるほどは年金がないので、母親一人しか、入れられないのである

父親は、母親から逃れるために2週間前に首都圏にある私の家に先に連れてきていたのだった。逃げてきたというのがふさわしいのかもしれない。父親は「ちょっと娘の家にあそびに行ってくる」というような感じで家を出てきたのだった。そうしないと、母親の抵抗にあい、家を出れないことは父親も承知していたのだ。

私は仕事をしながら、私の家の近くで、母の入れる施設を探しまわり、4軒ほど施設を見て回りました。運よく良い施設が見つかり、実家で一人でいる母親に連絡すると母はすんなり入ることを承諾したのだった。

そこで私は、母親の入れる施設と契約して、母親を実家に迎えに行ったのだが、母は、私の家へ到着し、父親と対面したなり、「おとうさん、なんでこんなところにいるの?早く帰ろう。帰らしてくれ」と言い続け、父親は、「帰らない。もうあの家には戻らない」と、母親とまた元の生活に戻ることを拒否し続けたのであった。母親は、初めから施設に入る気はない。お父さんを迎えに来るためにここに来たといい、お父さん早く帰ろうと言い続けた

しかし、二人で、実家に帰らせても、また、母親が、以前のような文句を言い続けるのは目に見えている。

都合のいいことは、覚えているが自分にとって都合が悪くなると、すぐ忘れたというのだ。

母親本人は、「施設には入らない。お父さん一緒に帰ろう」「帰らせてくれ」と毎晩毎晩、怒って言って来て、なだめたり、説得したり、しかし、その説得が堂々巡りで一歩も前に進まず、精神だけが疲弊していく日々だったのだ。

1週間、そんな日々が続いたが、とうとう母親は施設に入ったのだった

みんなで説得し、最後には、父親が説得したのだった。

ほっとして、みんなでお疲れ会を開いたりして、「大変だったね」「疲れたね」

など言い合って、ほんとに心からほっとして、ある意味、一仕事終わった後、のような達成感まで

味わっていたのだった。入ってくれるか、瀬戸際の状態で1週間近く母と父と私の家で過ごし、爆弾の様だった。

しかし施設に入ったところで、それで事は終わらなかったのだった

携帯電話を持っていた母親は、ちょっとのことで、例えば、「暑いのに、部屋の温度を下げてくれない」とか「今度は寒くなってきたので、介護士さんに言いたいが、言いづらい」「化粧水を盗まれた」

究極は「家の処分をしないといけないので、一度実家の家に帰らせてくれ」とこれまた、すごい勢いで言ってくる。「それは私たちでやるから」といっても「いや」「でも」と言ってきく耳を持たない。

そこで、私は母からの電話に一切出ることを辞めた

弟も、母親からの電話を着信拒否にしたのだった

そうすると、母は、怒り心頭となり、また鬼電してきて、こっちが電話に出ないとなると、長文のメールを送ってきた。

メールの内容はもう読み返したくないくらいの、施設の悪口と、私に対する悪口を書き連ねた、長文だった。

私はそれに傷ついた

母のため、父のために良かれと思い、私自身はフルタイムで会社で働きながらも、その合間に施設を探し、入居手続きをし、市役所でもスムーズにいかず、転出届を出し、転入届を出し、マイナンバーカードの手続きもし、母親の施設の入居にかかる、日用品、や布団一式や、TVやらを買いそろえ、お金もかかり、大変だったのだ。

それなのに、その間、母親が、毎晩、帰らせてくれ、お父さん一緒に帰ろうと100回くらい言い続けたのをみんなでなだめすかし、疲れ切っていた。

それに加え施設に入ったら入ったで、鬼電や、こちらを故意に傷つける長文メールに、なんでこんなことしなきゃならないの?もうどうでもいいから、二人とも、実家へ、帰ってくれないか、もう歳で、体が思うように動かない88歳の父親にも心の中で悪態をつき、平穏な私の日々を返してくれと、こちらが泣きたいくらいだし、会社には行って仕事をしなければならないし、私の精神もむしばまれていった。

そして、もう鬼電から逃れたいばっかりに、施設に電話して、「母親の携帯を取り上げてくれ」とお願いしたのだった。

それからピタッと電話はやんで、鳴らなくなったし、メールもなくなった。

そうすると今度は私のほうで、母親の自由を奪ったような気がして、罪悪感にさいなまれたのだった

実家のほうでの母親の友達や母親の姉妹との連絡を一切取れないようになってしまって、母親はさぞ悲しんでいるだろうと、私を恨んでいるだろうと思い始め、ひどいことをしたのではないかと悩んでしまったのだ。あの母親からの、長文のひどいメールが頭の中から離れなくなってしまったのだ

施設に電話して母親の様子を聞いてみると、やはり「電話がかけれない」と何度も訴えているようだった。

もう私は母親が、気が狂うのではないかと恐ろしくなり、平常心が保てなかった

そんな時、出会ったのが、「安心介護」というサイトだった。

そこで、Q&Aに悩みを発信すると、ほどなく、たくさんの返信が届いた。それは介護のプロたちからの返信だった。

ほとんどが、私が、携帯を取り上げた行為は間違った行動ではない。母親の今までの人間関係は絶ってしまったかもしれないけど、施設という新しい世界を提供しているので、そこに徐々に慣れていくので安心してください。

というような、あたたかい内容の返信を多く、いただいた

本当に悩んで、仕事中もほかのことが手が着かないくらいな私にとって、「安心介護」のQ&Aの返信のお言葉は、どれもありがたいお言葉で、心がスーッとしました。

また、私は、その言葉にだんだんと癒され、徐々に、これでよかったんだと、思えるようになったのでした。ホントに「安心介護」の介護職経験者の皆さんのご意見は私にとって、ありがたいお言葉でした。

「安心介護」さん、ここから見れます

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そして2週間がたち、私も少し元気を取り戻し、母親との面会の日となった。

その日は、娘夫婦も来てくれることになり、みんなで昼食に出かけた。

私はこの日がどんな日になるか、正直、怖かった。母親からなにを言われるか、携帯電話のことや、施設のこと。と構えていたのだ。

そうすると、何のことはない、母親から携帯電話のことはいっさい言ってこなかったし、施設の悪口も言ってこなかったのである。

それどころか、施設に入っているお仲間たちも、明るく楽しい人達だし、施設の介護士さんたちもいい人だし、私はもう1年くらい施設に入っているくらい、施設にも慣れて、居心地がいいというようなことを言っているのだ。

いっしょに行っていた父親には、ちょっと意地悪を言っていたが、また、残してきた実家の行方を心配はしていたが、施設に対しての悪口は一切言わなかったのである。私に対する、悪口も言わなかった

しかも、それどころか母親の鬱っぽいところがあんまりなくなっていたのだ。明るくなっていたのだ。

このままこれが続くとは限らないが、私はちょっと肩の荷を下ろしたのである。携帯電話を取り上げられてから2週間、母親なりになにか考えてくれたのかと思います。

そして、これはひとえに施設の方たちのおかげだと思います。ほんとにありがたいことです

これからも新しい生活に慣れていってほしいし、母親の精神が心安らかに安定していますように。と願うばかりです。

次回は、ほとんどの荷物そのままに残してきた実家を整理し、買い取ってもらうもの、廃棄するものとの仕分けをした様子をお話しします。

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今は、ある会社で毎日あくせくと働き、貧乏暇なし。猫とともに生きている、子育てを終わった50代。買い物好きで、お金はないけれど、それなりに人生楽しもうと頑張っています。食べることが大好きで、時々する外食や、旅行、また、好きなもの、好きな映画、好きな本、日々思うことなどいろいろ日記形式で発信していきたいと思います。

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