これは、認知症を患ってしまった、母親とのお話である。
書かずにはいられない衝動にかられ、この話を書き始める。
私の母親は、数年前から、日々の生活の文句ばかりを言うようになったのである。
もともとそういうことを言う性格であったため、初めはうるさいなーもう。
くらいであまり気づいてはいなかった。
しかし、私がそのことを言って、いい加減にするように言うと、近くに住む、弟の家に行って、私からひどいことを言われたといって泣いて訴えるようになったのである。私は、そのことを弟から聞いたとき、私は、泣いて訴えられるほどひどいことを言っていない。母親は、鬱ではないかと疑ったのである。
一緒に住む父親は、体の具合がわるくなるほど、母親から細かいこと、例えば、庭の草を引かない、車の運転をもうやめた父親を連れて病院や、買い物、散歩などへ連れて行かなければならず、自分の手を煩わせてばかりだと、母親が家にいるときは、朝から一日中、小言を聞かされた。
そのため、私はすぐに新幹線で4時間の実家へ、すぐに帰った。
そして何ともないと言ってきかない母親を何とか、心療内科へ連れて行ったのだ。
私は精神的な病気だと思っていたが、先生の診断は、アルツハイマー型認知症だとのことだった。
専門家の診断を否定するわけにはいかないので、そういうことで、投薬を始めた。
弟にもそういうことで、了解を求めた。
それからというもの、母親は、車のカギをなくす、家のカギをなくす、キャッシュカードをなくす、ということを繰り返した。
そのたびに母親はひろひろ動揺しては弟に助けを求めていた。
また、父親に対しては、ちゃんと自分のことはじぶんでやれというようなことを言ったり、もう、この古い家での生活は嫌だから、家を売って、二間くらいのアパートへ引っ越そうといったりと、父親に包丁を向けて脅しとも取れる行為を繰り返した。
そのことを父親から聞かされた弟は、父親が母親のどうやら餌食のようになっている状況から、父親を母親より離す目的で、父親だけ老人ホームに入ることを決めた。
母親には内緒にして進めたようだ。
そのことを知った母親は、最初は事態があまり呑み込めていないようだったが、父親が明日、入所する前日になって、行くなと言って父親を説得し、父親はしかたなく思いとどまり、施設に入る話はおじゃんとなったのである。

それから3日は母親は機嫌がよかったそうである。
しかし、4日過ぎたあたりから、また再び、父親への小言の攻撃がはじまったのである。
朝から2時間くらいの及ぶこともあり、父親は、もう反応することさえあきらめていたそうだ。布団をかぶって、小言を聞くでもなく、その時間を耐えていたようだった。

母親とは相変わらず、遠方であったため、電話でたわいない話をするというような日々であったが、 87にもなる父親は精神的にも体も疲弊していったようだった。
近くで時々様子を見に行っていた弟は、そんな父親を見てさすがにやばいと思い、せめてデイサービスに通い、少しでも母親と離れる時間を作ったほうが良いと、父親に提案し、父親がそれに応じる形で通所を週3回ほどするようになった。
そこで気分転換をできるようになった父親は、少し元気を取り戻したようだったが、母親の攻撃はやまなかった。父親が家にいる日は、変わらず、小言の攻撃をぐちぐち何時間も繰り返した。

そして今度は母親は父親に「老人ホームに入りたい」「老人ホームに一緒に入ろう」ということを毎日毎日何時間もくりかえしていたらしい。
父親は「入るか!」「お前だけはいれ!」
というような返答を繰り返していたらしいが、毎日毎日、同じ問答が繰り返されていたのだった。
弟から、父親がかなり精神的に参ってしまい、体も悪くなったということを聞いた。

そこで私は、父親は私が見るので、母親には希望どおり老人ホームに入ってもらおうと提案したのだ。
二人で老ホームにに入っては、意味がない。きっと母親のことだから、最初はいいが、慣れてきたら今度は違った文句を見つけては、また父親を攻撃するのは目に見えているので、父親は、二人で老人ホームに入るのは意味がないと、言っていた。たしかにそれはそうなのだ。
そこで弟は、父親を、首都圏にある私の家で暮らすことを父親に提案した。私は、もう子供も巣立って、夫と二人暮らしだったため、自宅の広さにも多少の余裕がある、3人暮らしならできると判断したのだった。
父親は頑固一徹な人ではあるが、以外にも首都圏まで上京して来ることをあっさり承諾したのだった。
それだけ父親は、母親の小言攻撃に辟易していたといえる。
もう体がかなり弱っていたので、車で18時間かけて実家まで迎えに行ったのだ。
母親は、弟の提案で、だまして父親と引き離そうとしていたが、私は、母親にこの提案を電話で伝えていた。
母親は、いいじゃん!という感じで、受け入れた。

そこで父親をピックアップして、首都圏へと引き返したわけだが、そこから母親の鬼電がやまなくなった。「父親を返せ、なんてひどいことをするのだ」と一日に数えきれないくらい電話をしてきた。
そんな日が1週間くらい続いたとき、母親が「TVが見れなくなった」ということで電話をしてきた。原因はわからないが、TVも観れず、家にいるのは気の毒だと思ったので、私は、首都圏で、老人ホームを探し始めた。
「みんなの介護」さん紹介で、4軒ほど見て回っていたら、とってもよさそうな施設が見つかった。
そこで母親に「これこれいいホームがこっちに見つかった」と話すと、ぜひ、入れてくれとの回答だった。
また、16時間車を走らせ、実家まで今度は母親を迎えに行ったのだ。2晩寝ずに車を走らせ、やっと首都圏の我が家へと到着。

着いたなり、母親の「お父さん、2人で帰ろう」
との攻撃が繰り返される。こっちに来たのはそのためであって、老人ホームなどに入るためではない。
と言い張って、毎晩、ひーひー言って、帰らせてくれと騒いだ。
しかし、朝起きると、ホームに入るから、というのであった。そこで、ホームに入る準備、例えば、布団、TV、チェスト、食器類、ねまき、靴、帽子などいろいろとそろえ、準備は着々と進んでいるのに、
昼間の、準備でいろいろ買ってそろえているときは、ご機嫌に、ホームに入ることを受け入れたようにふるまっているのだが、
毎晩、夕食を終えると、
母親の「お父さん、2人で帰ろう」
との攻撃が繰り返される。こっちに来たのはそのためであって、老人ホームなどに入るためではない。
と言い張って、毎晩、ひーひー言って、帰らせてくれと騒いだ。

母親は話せばわかってくれると老人ホームに入ってくれるよう、何度も言い聞かせてきた。だが、もう無理となった。
これをくじけずに優しく接することができるのなら、そうしたいが、私は限界を迎えた。
これ以上、母親に振り回されていては、自分が壊れる。そしてそこまでする必要はないことを悟った。
母親のせいで自分を壊す必要はないのだ。酷なようだけど、私はその考えのもと、母
親をある日、見限った。
もう、この人は人として壊れてしまった。
と絶望をしたのだった。
時々は、いつもの、昔のような母親が現れることはある。しかし、それ以外の時が、あまりにひどすぎて、もうそんな母親がでてきたとしてもうれしくならない。最初のころは、そんな母親が出てくると、うれしくなって、会話を楽しんだりはしていたのだけれど。
それ以外の時の母親がどんなにひどいかというと、もう母親は、自分以外の人間はどうでもいいのだ。自分が
自分の主張をするためだったら、どんなことを言ってもいいと思っているのだ。もう人を傷つけてはダメだとか、言っていいことと、悪いことがあるのだとかはいっさいの考慮はなされない。
とにかく母親は、この口論には、自分が勝つのだ、と思っているのかもしれない。
その口論になると、すごく頭が回るのだ。
それは違う、間違っているということをどんなに説こうとしても、聞く耳など全くないのだ。
自分の主張を通すことしか頭にないのだ。
母親は、思い出すに、昔からそのような性格ではあった。
昔からしつこさでは、ほとほと辟易していたのだ。こっちが「わかった」というまですごい執念で、人を説き伏せてきた。
その性格が、災いしているのは間違いない。
その性格が、近年、ひどくでているのだ。
やってあげてもやってあげても、とどまるところを知らず、要求してくるのだ。
もうそれには、むかっ腹がたって仕方がなくなる。もうこれこれやってあげたじゃないといっても、
あんなの大したことじゃないみたいなことを平気で言って、更なる要求をしてくるのだ。
それには金銭が絡むもののことも多く、なんで私があなたのために、身銭をきってこんなにやってやらなくてはならないのか、
それもまったく当たり前のような顔をされて。
こんなふうにお金のことを言っては、はしたないのかもしれないが、
私はそこも我慢ならないのだ。
母親は、父親の稼いだお金を、好きに使ってきた。貯金など一銭もしていない。ほしいものはすぐ買う。我慢なんてほとんどしたことはないと思う。父親はそれほど年収が低くはなかったのだ。
決して、金持ちではなかったが、家族4人暮らしていくには十分な年収は得ていたと思うし、一つの会社で40年勤めあげた父親は、退職金だってそれなりにあったのだ。
その退職金は数年で消えた。なぜならば、何十万もする玄関マット、何十万もする羽毛布団、何十万もする印鑑、何十万もする絵画、何十万もするコート、きりがないくらい使い果たした。そのことで父親と母親が喧嘩をしているのを見たことがある。父親は、転勤が多く、単身赴任で家を空けがちだったので夫婦で一緒にいた時期をほとんど見たことがない。
一緒に出掛けることもなかった。父親が、というよりは母親が父親をずっと子供の頃から汚いものを見るような目で接していたのを、子供ごごろに覚えている。そしてしつこく自分の言うことを言い聞かせて、自分の言うとおりに支配してきた母親は、他人にはすごくよそ行き面をするのだ。他人には、こちらが何を言ってもそんな悪い母親には見えなかったに違いない。
子供のころは、自分を着飾ることに快感を覚えた母親は、いっつも何十万もする服で着飾っては、友達の経営する喫茶店に入り浸っていたのだ。
そして父親は、10年前のすり減った背広、ポロシャツ、ズボンをはいて会社へ行き、それでもなんの文句も言わない人だったのだ。
そして子供も、いつも靴下に穴をあけたものをはいていた。
着飾って遊びに行く、それが主婦だったころの母親の姿として思い出すところだ。
ただ、夕飯はいつも作ってくれた。
そこも印象に残っている母親の姿だ。
授業参観は必ず来てくれたが、母親の中で自分が一番みたいな格好と化粧でやってきた。
そしてクラスの子が自分をみて何か言っていたかと聞くのが定番だった。
「きれい」とだれだれが言っていたよ、というと満足そうにしていたのも覚えている。
この人は壊れてしまった。
もう相手をする私もそして私の夫、父親、弟。周りのみんなが振り回されて疲れ切った。
そして施設に入れるまで、本当に大変だったのだ。
一息付けた。
今は、以外にも施設に入り、生活を楽しんでいるように見える。
今は余生をゆったりと、そして少しでも楽しく過ごしてほしいと願うばかりだ。
ここまでが、認知症を患った母親を施設に入れるまでのお話であった。
心身ともに疲れた時は、ほっとできるひと時を、少しでも過ごして。

おいしいお菓子を添えて。




贅沢に自分をいたわって。


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